■ 引き裂かれたイレブン
「引き裂かれたイレブン 〜オシムの涙〜」というDVDを見た。これは、2000年にオランダで制作されたドキュメント番組をDVD化したものである。

かつて、ユーゴスラビアは、「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と評された。(※7つの隣国:イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア/ 6つの共和国:スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア/ 5つの民族:スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人/ 4つの言語:スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語/ 3つの宗教:カトリック、東方正教、イスラム教/ 2つの文字:ラテン文字、キリル文字)第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の舞台でもあり、ヨーロッパの火薬庫と言われた地域である。
■ ゴールデンエイジと光と影
ストーリーは、旧ユーゴスラビア代表のプロシネツキ、サビチェビッチ、ボバン、ミヤトビッチ、ミハイロビッチの過去の回想が中心となる。
1987年のワールドユースでユーゴスラビアは世界一に輝いた。プロサッカー選手として、プロシネツキはレアル・マドリードやFCバルセロナ、サビチェビッチとボバンはACミラン、ミヤトビッチはレアル・マドリード、ミハイロビッチはラツィオで一時代を築くことになる。この時代のユーゴは、巨大な才能が集まった宝庫だった。
このメンバーに、妖精ストイコビッチを加えたチームは、イビチャ・オシム監督のもと、90年のイタリアワールドカップを戦う。
「あれだけのメンバーをそろえながら、ベスト8止まりだった。」というのは、オシム批判で聞かれる声の1つだが、おそらく、少しでも世界史の知識がある人だったら、このような発言はできないだろう。
VTR中に、90年のイタリアワールドカップ直前にザグレブ(現クロアチアの首都)で親善試合を行うユーゴスラビア代表の映像が流れたが、ユーゴ代表選手の1人が、「11人対2万人の戦いだ。」と自嘲気味に話した。ワールドカップの歴史を見ても、このときのユーゴスラビア代表チームほど、自国民からサポートされなかったチームはないだろう。
インタービュー中に、ユーゴスラビア代表チームの最後の監督であるイビチャ・オシムは、
「おこがましい言い方かもしれないが、あのときユーゴがW杯で優勝していたら、歴史が変わったかも・・・。ボスニアが統一国家であることを受け入れて、その後の悲惨な紛争を避けられたかもしれない。」
と語っている。
ピクシーの美しい2ゴールでスペインを下し、ベスト8進出を決めた夜、オシムの故郷サラエボでも「ユーゴスラビア!ユーゴスラビア!」と街頭で叫び回る若者の姿がVTRで映し出された。この夜が、事実上、ユーゴスラビアが連邦共和国として機能した最後の日となった。
オシム監督は、準々決勝のアルゼンチン戦のPK戦を、ベンチで見ることはなかった。この行動に対しては、さまざまな解釈がなされたが、前述の発言を聞けば、その深い思いと苦悩を感じ取ることができる。
民族のそして、故郷の運命を背負って戦ったユーゴスラビア代表チーム。サッカーは政治とは無関係でいてほしいと思うが、現実はそうもいかないのだ。
もし、ユーゴスラビアが国家として崩壊しなかったならば、イタリアワールドカップやEURO92でユーゴスラビア代表は、どんなファンタジーを醸し出したのだろうか?そして、イビチャ・オシムと、ジェフ千葉と、日本代表の未来は、どうなっていたのだろうか?
「引き裂かれたイレブン 〜オシムの涙〜」というDVDを見た。これは、2000年にオランダで制作されたドキュメント番組をDVD化したものである。
かつて、ユーゴスラビアは、「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と評された。(※7つの隣国:イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア/ 6つの共和国:スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア/ 5つの民族:スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人/ 4つの言語:スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語/ 3つの宗教:カトリック、東方正教、イスラム教/ 2つの文字:ラテン文字、キリル文字)第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の舞台でもあり、ヨーロッパの火薬庫と言われた地域である。
※ サラエボ事件
1914年6月28日にオーストリア・ハンガリーの皇帝=国王の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領であったサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年ガブリロ・プリンチプによって暗殺された事件。この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。
■ ゴールデンエイジと光と影
ストーリーは、旧ユーゴスラビア代表のプロシネツキ、サビチェビッチ、ボバン、ミヤトビッチ、ミハイロビッチの過去の回想が中心となる。
1987年のワールドユースでユーゴスラビアは世界一に輝いた。プロサッカー選手として、プロシネツキはレアル・マドリードやFCバルセロナ、サビチェビッチとボバンはACミラン、ミヤトビッチはレアル・マドリード、ミハイロビッチはラツィオで一時代を築くことになる。この時代のユーゴは、巨大な才能が集まった宝庫だった。
このメンバーに、妖精ストイコビッチを加えたチームは、イビチャ・オシム監督のもと、90年のイタリアワールドカップを戦う。
「あれだけのメンバーをそろえながら、ベスト8止まりだった。」というのは、オシム批判で聞かれる声の1つだが、おそらく、少しでも世界史の知識がある人だったら、このような発言はできないだろう。
VTR中に、90年のイタリアワールドカップ直前にザグレブ(現クロアチアの首都)で親善試合を行うユーゴスラビア代表の映像が流れたが、ユーゴ代表選手の1人が、「11人対2万人の戦いだ。」と自嘲気味に話した。ワールドカップの歴史を見ても、このときのユーゴスラビア代表チームほど、自国民からサポートされなかったチームはないだろう。
インタービュー中に、ユーゴスラビア代表チームの最後の監督であるイビチャ・オシムは、
「おこがましい言い方かもしれないが、あのときユーゴがW杯で優勝していたら、歴史が変わったかも・・・。ボスニアが統一国家であることを受け入れて、その後の悲惨な紛争を避けられたかもしれない。」
と語っている。
ピクシーの美しい2ゴールでスペインを下し、ベスト8進出を決めた夜、オシムの故郷サラエボでも「ユーゴスラビア!ユーゴスラビア!」と街頭で叫び回る若者の姿がVTRで映し出された。この夜が、事実上、ユーゴスラビアが連邦共和国として機能した最後の日となった。
オシム監督は、準々決勝のアルゼンチン戦のPK戦を、ベンチで見ることはなかった。この行動に対しては、さまざまな解釈がなされたが、前述の発言を聞けば、その深い思いと苦悩を感じ取ることができる。
※ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり戦争となった。
両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。
民族のそして、故郷の運命を背負って戦ったユーゴスラビア代表チーム。サッカーは政治とは無関係でいてほしいと思うが、現実はそうもいかないのだ。
もし、ユーゴスラビアが国家として崩壊しなかったならば、イタリアワールドカップやEURO92でユーゴスラビア代表は、どんなファンタジーを醸し出したのだろうか?そして、イビチャ・オシムと、ジェフ千葉と、日本代表の未来は、どうなっていたのだろうか?
