■ レフティの歩み
ジュビロ磐田のMF名波浩は、静岡の清水商業時代から名前の知られた選手だった。高校の1つ上の学年にMF藤田俊哉、同学年にMF山田隆裕、DF薩川了洋、DF大岩剛、1つ下の学年にDF西ヶ谷隆之、MF望月重良がいる。
その彼が順天堂大学を経てジュビロ磐田に入団したのが1995年のことである。
間違いなく大学生としてはトップレベルの選手だった。Jリーグで2年目のシーズンを迎えていた磐田にとって、彼には、即戦力の期待がかかった。ただ、いきなり絶対的な存在となったわけでは無かった。確かに左足のプレーに見るべきものはあったが、リーグを席巻するだけのインパクトがあったわけでは無かった。
むしろ、高校時代の高評価と比べて大学時代の4年間は伸び悩んだという評価もあった。何かのインタビューで、プロでも1年先輩にあたる藤田俊哉が、「いろいろと言われているが、それでも天才は死なない。」というような発言をしたのが印象に残っている。
■ 新世代の台頭
1995年当時の日本サッカー界は、MFラモス、DF堀池巧、DF都並敏史、GK松永成立らドーハ世代が衰えを見せ始めていて、若手の台頭が待ち望まれていた。
MF前園真聖、FW小倉隆史、FW城彰二、GK川口能活というアトランタ世代のスター選手は出現し始めていたが、彼らはあくまでも五輪代表の活動を優先しており、日本代表の活動とは距離を置いていた。新任の加茂周監督はMFラモスの後継者を探し続けた。
日本代表監督としてのは必ずしも高評価が与えられてない加茂氏だが、若手の抜擢には躊躇しなかった。MF前園真聖は加茂氏が横浜フリューゲルス時代に見出したタレントであり、さらに、バルセロナ世代であるDF柳本啓成、DF相馬直樹、MF森島寛晃、FW岡野雅行といった、当時、必ずしもJリーグの中で目覚ましい活躍を見せていたわけでは無かった実績の少ない25歳弱の若手選手を次々に代表に招集し、積極的に起用した。
MF名波浩も加茂氏に代表に導かれた選手の1人である。代表デビューは1995年の8月6日のコスタリカ戦。京都市の西京極競技場で行われた試合で、同時に、記念すべき初ゴールをマークした。その試合の3日後に行われたブラジル戦がMFラモスにとって代表ラストマッチとなった。
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■ 背番号10
名波の代名詞となっているのがジュビロ時代に背負った背番号「7」。であるが、日本代表では、ほとんどの試合で背番号「10」を背負った。
その名波が初めて日の丸の10番を背負った1996年5月26日のキリン杯のユーゴスラビア戦は、非常に印象深い。MFストイコビッチ、FWサビチェビッチといった世界的な名手を相手に日本代表10番は負けていなかった。この試合を契機にMF名波浩は代表で中心的な存在となった。
■ ボランチへのコンバート
転機となったのはボランチへのコンバートである。1996年の夏のアトランタ五輪後、五輪代表のエースMF前園真聖の本格的なA代表への参加が確実視されていた。ポジションの重なるMF名波は、ボランチの位置にポジションを移すことが求められた。
ユーティリティー性が必須な現代サッカーの感覚で言うと、攻撃的MFの選手がボランチに下がることは大きな問題では無いかもしれないが、当時は、大きなことであった。「果たしてMF名波にボランチが務まるのか。」という疑念は持たない人はいなかった。
■ 魅惑のトライアングル
名波浩は1972年生まれ。この世代は、不遇の世代でもある。1つ下のMF前園やFW小倉の世代はアトランタ五輪への出場を待望されて、協会から十分なバックアップを受けた。上にドーハ世代、下にアトランタ世代。その狭間で恵まれた環境とは言えなかった。
ただ、結果的にMF名波の世代の多くは日本サッカー界で生き残った。決して体は強くなかった。スタミナが豊富だったわけでは無かった。1人で決定的な仕事をする選手では無かった。彼は世界基準の選手とは言えなかった。
ただし、味方を使うプレーが抜群に巧かった。彼がひとりピッチにいるだけで、周りの選手の能力が2割増しになるような、そんな選手だった。
フランス大会を目指すチームでコンビを組んだMF中田英寿は、フィジカル面でも精神面でも日本人離れしたミッドフィールダーだった。そして、その反対に、MF名波浩は、抜群に頭が良くて、繊細で、実に日本人らしい日本人的なミッドフィールダーだった。その2人にMF山口素弘を加えた中盤のトライアングルは日本サッカー史に残る芸術品だった。そのことに異論はないだろう。
ジュビロ磐田のMF名波浩は、静岡の清水商業時代から名前の知られた選手だった。高校の1つ上の学年にMF藤田俊哉、同学年にMF山田隆裕、DF薩川了洋、DF大岩剛、1つ下の学年にDF西ヶ谷隆之、MF望月重良がいる。
その彼が順天堂大学を経てジュビロ磐田に入団したのが1995年のことである。
間違いなく大学生としてはトップレベルの選手だった。Jリーグで2年目のシーズンを迎えていた磐田にとって、彼には、即戦力の期待がかかった。ただ、いきなり絶対的な存在となったわけでは無かった。確かに左足のプレーに見るべきものはあったが、リーグを席巻するだけのインパクトがあったわけでは無かった。
むしろ、高校時代の高評価と比べて大学時代の4年間は伸び悩んだという評価もあった。何かのインタビューで、プロでも1年先輩にあたる藤田俊哉が、「いろいろと言われているが、それでも天才は死なない。」というような発言をしたのが印象に残っている。
■ 新世代の台頭
1995年当時の日本サッカー界は、MFラモス、DF堀池巧、DF都並敏史、GK松永成立らドーハ世代が衰えを見せ始めていて、若手の台頭が待ち望まれていた。
MF前園真聖、FW小倉隆史、FW城彰二、GK川口能活というアトランタ世代のスター選手は出現し始めていたが、彼らはあくまでも五輪代表の活動を優先しており、日本代表の活動とは距離を置いていた。新任の加茂周監督はMFラモスの後継者を探し続けた。
日本代表監督としてのは必ずしも高評価が与えられてない加茂氏だが、若手の抜擢には躊躇しなかった。MF前園真聖は加茂氏が横浜フリューゲルス時代に見出したタレントであり、さらに、バルセロナ世代であるDF柳本啓成、DF相馬直樹、MF森島寛晃、FW岡野雅行といった、当時、必ずしもJリーグの中で目覚ましい活躍を見せていたわけでは無かった実績の少ない25歳弱の若手選手を次々に代表に招集し、積極的に起用した。
MF名波浩も加茂氏に代表に導かれた選手の1人である。代表デビューは1995年の8月6日のコスタリカ戦。京都市の西京極競技場で行われた試合で、同時に、記念すべき初ゴールをマークした。その試合の3日後に行われたブラジル戦がMFラモスにとって代表ラストマッチとなった。
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■ 背番号10
名波の代名詞となっているのがジュビロ時代に背負った背番号「7」。であるが、日本代表では、ほとんどの試合で背番号「10」を背負った。
その名波が初めて日の丸の10番を背負った1996年5月26日のキリン杯のユーゴスラビア戦は、非常に印象深い。MFストイコビッチ、FWサビチェビッチといった世界的な名手を相手に日本代表10番は負けていなかった。この試合を契機にMF名波浩は代表で中心的な存在となった。
■ ボランチへのコンバート
転機となったのはボランチへのコンバートである。1996年の夏のアトランタ五輪後、五輪代表のエースMF前園真聖の本格的なA代表への参加が確実視されていた。ポジションの重なるMF名波は、ボランチの位置にポジションを移すことが求められた。
ユーティリティー性が必須な現代サッカーの感覚で言うと、攻撃的MFの選手がボランチに下がることは大きな問題では無いかもしれないが、当時は、大きなことであった。「果たしてMF名波にボランチが務まるのか。」という疑念は持たない人はいなかった。
■ 魅惑のトライアングル
名波浩は1972年生まれ。この世代は、不遇の世代でもある。1つ下のMF前園やFW小倉の世代はアトランタ五輪への出場を待望されて、協会から十分なバックアップを受けた。上にドーハ世代、下にアトランタ世代。その狭間で恵まれた環境とは言えなかった。
ただ、結果的にMF名波の世代の多くは日本サッカー界で生き残った。決して体は強くなかった。スタミナが豊富だったわけでは無かった。1人で決定的な仕事をする選手では無かった。彼は世界基準の選手とは言えなかった。
ただし、味方を使うプレーが抜群に巧かった。彼がひとりピッチにいるだけで、周りの選手の能力が2割増しになるような、そんな選手だった。
フランス大会を目指すチームでコンビを組んだMF中田英寿は、フィジカル面でも精神面でも日本人離れしたミッドフィールダーだった。そして、その反対に、MF名波浩は、抜群に頭が良くて、繊細で、実に日本人らしい日本人的なミッドフィールダーだった。その2人にMF山口素弘を加えた中盤のトライアングルは日本サッカー史に残る芸術品だった。そのことに異論はないだろう。
