中田英寿のいない日本代表チーム
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先日、偶然にも、面白い書き込みを見つけた。
「中田(英)って代表では活躍したことないじゃん。」
彼を初めて見たのは、1993年の秋のことだった。日本で行われたU-17世界選手権。韮崎高校の2年生だった彼は、国見高校の長身FW船越優蔵と2トップを組んで、グループリーグ突破に貢献。当時はウイング的なポジションを任されていて、準々決勝のナイジェリア戦で1ゴールを記録。ただ、チームの中心はMF財前宣之であった。
1995年に飛ぶ鳥を落とす勢いだったベルマーレ平塚に入団。初年度は26試合で8ゴール。ユース代表の試合でリーグ戦を欠場することも多かったが、高卒新人としては十分すぎるほどの成績だった。その年、ベルマーレ平塚はカップウイナーズカップを制し、アジアのカップ戦覇者となる。イラクのアル・タラバとのファイナルで決勝ゴールをマークしたのは、18歳の左足だった。
1996年のアトランタ五輪を経て、1997年の5月の日韓戦で代表デビュー。アジア1次予選の日本ラウンドを目前に控えたいわゆるテストマッチの1つにすぎなかったが、日本サッカー史にとっては、ただの1試合とはならなかった。
Numberでは、その試合の様子をこう表現している。
その日の国立競技場は、新鮮な予感に満ちていた。新しいスターを迎えるとき特有のそわそわした空気がスタジアム中を包んでいた。誰もが新しい星に注目した。
1998年のフランスW杯後に、セリエAのペルージャに入団。いきなり10ゴールを挙げる鮮烈なデビューを飾る。とくに前半戦は17試合で9ゴールという大車輪の活躍を見せた。
全てのイタリア人は日本人選手がセリエAの舞台で通用するとは夢にも思っていなかった。1995年の夏、三浦知良のジェノアでの挑戦が終わったとき、イタリア人ジャーナリストは、こう断言した。「今後、少なくとも、10年間は日本人がセリエAで活躍することは無いだろう。」と。
実際に、日本人の多くも、彼に期待しつつも薄々そのように感じていた。セリエAのピッチは、はるか彼方の別世界のものだと思っていた。
25歳で迎えた2002年の地元開催のW杯。トルシエ監督との確執も伝えられたが、トップスターの1人としてピッチを躍動。グループリーグのチュニジア戦で決めた彼のヘディングシュートは、日本代表の決勝トーナメント進出を決定的にするメモリアルゴールとなった。
結局、日本代表が出場したこれまでのW杯10試合に全て先発出場。お役御免となった2002年のチュニジア戦を除くと、すべてフル出場。押しも押されぬチームの大黒柱として、3度ものW杯本大会に挑んだプレーヤーは世界的にみても稀である。
日本サッカーの新しい歴史の多くは、彼と共に築いてきたものである。日本人がワールドカップの名場面を思い出すとき、すべて彼の活躍と結びつく。「日本代表=中田英寿」と認識している人が多いのも納得である。
2006年のW杯を終えると、彼は代表チームを去った。代表チームのみならず、現役生活にも別れを告げた。「まだやれるのでは?」と誰もが感じる中で、日本代表は大きなものを失うこととなった。
セルティックで活躍するMF中村俊輔は確かに素晴らしい。欧州での実績だけを比較すると、すでにMF中田英寿を超えているのかもしれない。ただ、やはり、彼と比べると、決定的に何かが足りないような感じがする。
確かに、彼にはアンチも多かった。三浦知良とは違って、その言動に否定的な意見も多かった。誤解されやすく繊細な性格もそれに拍車をかけた。これは間違いない。
それでも、世界を目指して戦いを続けた当時の日本代表サポーターが、夢を託したのはMF中田英寿だった。最後の最後で頼りにしたのもMF中田英寿だった。そして、彼は、その願いを1つづつかなえてみせた。ジョホールバルでの戦い、セリエAの舞台、シドニー五輪、コンフェデ、そして2002年・・・。彼は日本サッカーの希望で、躍進する日本サッカーの象徴だった。
セリエAのスター選手となってからは、日本代表が窮地に追い込まれると、いつも、スーパーマンがイタリアからやって来た。国際Aマッチ出場は77試合で11得点。2001年のコンフェデレーションズカップ、初めての決勝進出を決める豪雨の横浜国際競技場で決めたグラウンダーの直接フリーキックは、キャリアのハイライトの1つとなった。
2006年のドイツW杯のブラジル戦。試合終了のホイッスルが鳴ったあと、ヴェストファーレンのピッチで他の選手が引きあげた後、10分間にわたってセンターサークル付近で寝転んで、天を仰いだままで涙を流す彼を見て、本当は彼もスーパーマンではなかったということを知った。クールな振る舞いの裏に熱い闘志を秘めて臨んだ3度目のW杯の結末は残酷だった。
2007年秋にイビチャ・オシム監督が病に倒れた日本代表チームは、岡田武史新監督のかじ取りの下、南アフリカへの切符を目指して戦っているが、状況は明るくない。試合内容もそうであるが、集客力も含めてそれ以外に多くの問題を抱えている。
彼が日本代表チームを去ってから2年の歳月が経とうとしている。
改めて考えてみると、ここ10年以上に渡って、日本サッカー界は「中田英寿」という存在に頼りすぎてはいなかっただろうか?ピッチ上の選手も、マスメディアも、サッカー協会も、サポーターも・・・。ドイツ以後、突っ走ってきたオシムジャパンの戦いが終わって、彼を失った穴の大きさを再び、感じずにはいられない。
「もう、日本代表に魅力を感じない。」という人は日に日に増している。浦和レッズや川崎フロンターレに代表されるように、近年、クラブチームの躍進は目を見張るものがある。もちろん、それはそれで歓迎すべきことである。
ただ、やっぱり、日本代表チームが日本で一番、魅力的なチームであってほしいと思う。いつまでも、MF柏木陽介やMF香川真司やFW柿谷曜一朗が憧れる存在であってほしいと願う。シンボルを失った代表が輝きを取り戻す日は来るのだろうか?
仮に南アフリカ行きのキップを逃したとしたら、世界中のサッカーファンは、「やっぱりNAKATAがいない日本代表なんて大したことない。日本サッカーにとってNAKATAの引退は大きかったんだな。」と考えるだろう。
そう思われるのは、やっぱり悔しい。
エピソード1
U-17世界選手権、ワールドユース、オリンピック、コンフェデレーションズカップ、ワールドカップの主要な世界大会すべてでゴールをあげているアジア人選手は、中田英寿ただ一人である。
エピソード2
1997年と1998年に2年連続でアジア年間最優秀選手賞を獲得。AFC選定となった1994年以降、2度、同賞を受賞した選手は中田英寿だけである。
エピソード3
1998-1999シーズンはリーグ戦10得点を挙げる活躍を見せ、イタリア有力スポーツ誌であるグエリン・スポリティーボ選出のセリエA・外国人選手MVPに選ばれた。
エピソード4 (ベルマーレとセレッソ)
昔、チームの絶対的中心選手(とっくにA代表)を、海外チームに送り出した。
翌年、親会社が撤退した。オフに主力選手がいなくなり、さらに翌年の秋のこと。
チームはダントツの最下位独走中で、降格は確定的だった。
悪いことは重なるもので、台風のせいで河川敷の練習場が水没した。
チームの存続すら微妙なのに、もう最悪だった。
そんな頃、五輪代表合宿で帰国していた彼が練習場にあらわれた。
すでにイタリーで成功をおさめて世界的に有名な選手であったにも関わらず、かつて所属していた貧乏チームを気遣ったんだ。
その年に降格すると、23歳の彼は5000万円を出し、背中スポンサーについた。
翌年も同様だった。
それからも、2年に1度ペースで、突然練習場に姿をあらわしては、居合わせたサポをビビらせ、もとい勇気づけた。
彼の世界中からアクセスのあるサイトのトップページには、10年間、うちの公式サイトへのバナーがしっかり張られている。
まるで絆であるかのように。
もちろん、今もスポンサー様。
先日は、チームの練習着をまとって練習に参加して、J2の試合もしっかり観戦。
そんな彼がワールドカップでゴール(追加点)を挙げたのが長居スタジアムだ。
先制点をとったのは、ご存知、「当時J2」のそちらの誇りである選手。
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